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「過ちは繰り返しませぬから」

  • 執筆者の写真: peacecellproject
    peacecellproject
  • 5 日前
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更新日:5 日前

「過ちは繰り返しませぬから」

広島の原爆慰霊碑の碑文の主語は誰だろうか。広島市のホームページには、「この碑文は、すべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉であり、過去の悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて、全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を祈念する”ヒロシマの心”が刻まれているものです」と書かれている。主語はつまり、「私たち人類全体」ということになるだろうか。


IS掃討作戦の中で崩れ落ちたハドバの尖塔も再建された(モスル2025年)
IS掃討作戦の中で崩れ落ちたハドバの尖塔も再建された(モスル2025年)

イラクで仕事をしていると、しばしばこの碑文が頭に浮かぶ。イラクは世界で最も大量の劣化ウラン弾をアメ リカに投下された国であり、「ヒロシマ、ナガサキ、イラクは同じ(ヒバクシャ)だ」と非常に強いシンパシーを示されることがよくあった。また、イラクの旧フセイン政権に毒ガス攻撃を受けたクルド人も同じことを言う。ただ、いつも最後に「〇〇は敵だ」と言う話になり、毎度少しの違和感を残して会話は終わる。


昨年、PCPの本願である元子ども兵の社会再統合支援を始めてから、分断の深さと複雑さに頭を抱えている。地獄のような日々は、私でさえ思い出すのがしんどいのだから、そうなるのも無理はない。どんなに平和主義者だったとしても、目の前で愛する人たちを殺されてしまった当事者は冷静ではいられない。苦しんでいる人に寄り添うあまり、同じように他者を敵視してしまうこともある。


しかし、それでは新たな分断を 引き起こしてしまうし、そこには被害者を加害者にしてしまう危険性も大いに孕んでいる。実際に、そうなってしまったケースもある。そして、寄り添っている人たちもまた同じように戦争犠牲者なのだということをあらためて思う。難しい。非常に難しい。


若い頃の私は、原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませぬから」の主語を「全人類」と考えるのは当たり前だと思っていた。でも、悲惨な戦争の後に、主語を「全人類」にして世界平和の実現を祈念するというのは簡単ではないことをイラクで思い知った。「ヒロシマの心」の「悲しみに耐え、憎しみを乗り越えて」の平和への誓いは、並大抵の覚悟ではなかったのだと思い至った。そして、21世紀が四半世紀過ぎても「戦争という過ち」を止める方法を持ち得ない人類に愕然とする。


イラクは今、とても安定している。町はどんどん新しくなり、どこも活気に満ちている。日本に海外旅行に行く人たちも出てきた。なんと日本食ブームが起き、寿司屋や日本のスイーツが人気を博している。もちろん、マンガの話題も尽きることはない。そんなバグダッドを歩いていると、戦争は終わったと感慨深く、泣きそうになってくる。そして、この平穏が続きますようにと祈るのだ。


イラクで日本食ブーム(バグダッド2025年)
イラクで日本食ブーム(バグダッド2025年)

ただ、カフェのテーブルなどでは、周辺国で止まない戦火について語られているし、隣国シリアやイランの情勢や過激派の再興を不安に思う人も多い。かっこ付きではあるが、「平時」となったイラクは今、平和構築や紛争予防に取り組むべき最も大切な時だ。ピースセル(平和細胞)プロジェクトは、そのために作られたのだ。


日本は再びイラクで存在感を示し始めた。スシやマンガに続き、「平和の国ニッポン」のイメージも 取り戻したい。いや、もっと積極的に「平和をつくる人たちニッポン」がいい。そうだ、それを目指そう。


主語を「人類」にした戦争のない世界の実現は、主語を「私」にしたひとりひとりの平和への希求と、その 行動にかかっているのだから。


(季刊PEACE CELL LETTER 連載 髙遠菜穂子の『分断を繕う』より)

 
 
 

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